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他力本願とは
親鸞聖人の教えで最も特徴的なものの1つが、この「他力本願」です。「不断煩悩得涅槃」に通じます。
1、他力って誰に頼るの?
2、なぜ自力ではダメなの?
3、他に救ってもらうしかないと説かれても、納得できないけど、、、。
この3点を巡って親鸞聖人の教えをご紹介します。
キーワード:邪見驕慢悪衆生 不断煩悩得涅槃
他力って誰に頼るの?
法蔵菩薩*は「全ての人を救う」という誓いを立て、その為にはどうしたら良いか5劫**(永遠に)の間、思惟し(考え抜き)、兆載永劫(ちょうさいようごう:永遠)に修行され、その願を達し阿弥陀如来となられました。
他力とは阿弥陀如来を拠り所(帰依する:南無)として生きていく事です。
そして、阿弥陀如来は実在の人ではなく、創造されたキャラクターである事が重要です。生身であれば往々にして好き嫌いが生じ「言うことを聞かない奴は救わない」となります。そんな人間の性を分かっているからこそ、『全ての人を救う阿弥陀如来』を創造したのでしょう。
*菩薩とは仏になろうと修行中の身のことです。
**劫とは時間の単位です。1劫は2千里四方の岩に天女が100年に一度天から降りて羽衣で岩を撫で、その岩がすり減って無くなる時間です。永遠です。
なぜ自力ではダメなの?
自力で修行し煩悩を断とうと努力された先達は多くおられます。親鸞聖人は著者『教行信証』に「誰か智者に如かんや」と律宗の元照師の言葉を引用し、華厳宗の杜順・禅宗の智覚等、修行の道を選んだ大僧でさえ、厳しい修行ののちそれが叶わず、最期には念仏往生を願ったと記しています。
私達凡夫は、自力の修行では「こんなに頑張ったのだから何か良い結果があるに違いない」と欲張ります。見返りを求めてする努力は足るを知らず、欲求は底なしにエスカレートします。
自力で悟りに至った人は古今東西見当たりません。親鸞聖人は人の煩悩の深さに気付き、自力ではどうする事も出来無いと説くのです。
他に救ってもらうしかないと説かれても、納得できないけど、、、。
私達は皆、毎日頑張って生きています。マラソンの有森裕子さんの「自分を褒めてあげたい」という言葉はとても大切です。自己肯定感の低さが投げやりな生き方につながることもありますし、生きる気力が湧いて来ない時に、温かい言葉でどん底から少しでも上を向く気持ちが芽生ることもあります。
一方で『正信偈』に「邪見驕慢悪衆生」という言葉があります。よこしまな物の見方、驕(おご)りたかぶった心、阿弥陀さんなんか要らんという自信過剰な生き方を諌めます。私はこの言葉をご本山での修練で班の担任から『ココに居る皆、全員、邪見驕慢悪衆生だ!』と投げつけられました。毎日こんなに頑張ってるのになぜそんな言葉を?!!と腹が立ちその夜は眠れません。
阿弥陀様に言われるならまだしも、会って一週間しか経って無い、私のこれまでの苦労など何も知らないあなたに言われたくないという思いでした。
私達は「こんなに頑張っているし、誰にも迷惑をかけていないから『自分は良い人間だ』」と思っています。しかし、よくよく考えれば、物事は自分に都合の良いよう判断し、気に入らない事には腹を立て不機嫌になり、他人を羨み批判し、小さなつまずきで嘆き、今あるものに執着し手放すことが出来ません。突き詰めてみれば、生身の人間である限り煩悩は断てません。私達は皆、邪見驕慢悪衆生なのです。
私もあの時「邪見驕慢悪衆生」と投げつけられていなければ、今も「私は皆の為に頑張ってる良い人」という自意識しか無かったと思います。
自分が邪見驕慢悪衆生である事に気付き、それを受け入れる事ができた時、初めて「自分は自分ではどうする事も出来ない煩悩具足の身で、阿弥陀様に頼むしかない」と気付くのです。その時、阿弥陀様が救って下さるということがようやく腑に落ちるのです。
なかなかそこに至らないのですが、、、。